「毎日、寝て起きて、食べて。
それ以外にすることがない。」
なんて悲しいことなんだろう。
全ての人に、つつましいながらも日々の暮らしがあったはずなのに。
自分だったらどうだろう。
なにも予定のない日曜日。
しばらく片づけてなかった押入れの整理でもするか、とか、
涼しくなってきたから庭の草取りしようか、とか、
好きだった本を読み返してみようか、とか、
去年着たセーターの袖のほつれを直しておこう、とか。
何かしら「すること」が思いつく。
何もかも失ってしまった人にとっては
片づけるべきゴミすらもない。
自分の庭もない。
懐かしい本も写真も、着古した服もない。
真新しい仮設住宅の部屋で
少ない家具に囲まれて
ただポツンとたたずむ。
ご飯を食べるとき、違和感が抜けない、という。
長いこと使っていた茶碗やお皿がひとつもない。
煮物にはこの器、焼き魚の時にはこのお皿。
どこの家でも使い慣れた定番の食器があったはず。
手になじまないお椀でご飯を食べるたびに
「喪失感」を味わう、という悲しさ。
だいたいにおいて、人間って、
「半分くらいは思い出でできている」もんだと思う。
夫婦や友人だって、思い出を共有しているからこそ
少ない言葉でも理解しあえるものだと思うし。
「思い出」を失ってしまった人は
あるいは
「思い出を共有する人」を失ってしまった人は
これから何をたよりに生きていくのだろう。
私は何ができるのだろう・・・・・・
人のつながりを作るしかないでしょうね。
そのために、何ができるのか。
うーん。
テレビで見たその人は、70歳近い女性でしたが、
震災以前は洋裁のお仕事をしてらしたようです。
田舎のほうだと、大手の縫製工場の下請けとかで
ファスナーつけだの、細かい作業をしてる人が結構いるんですよね。
仕事をなくす、ということは、
収入が途絶えることはもちろん社会的な存在意義みたいなものまで失ってしまう、ということなのでしょう。
なんとか、雇用を生み出す仕組みが必要なんだと思いました。