お盆で帰省したついてに、約1年ぶりに仙台市の荒浜地区を訪れました。
仙台南部道路を通って仙台空港に行ってから、県道10号線をずーっと北上して、七北田川の橋を超えるところまでいきました(キリンビール仙台工場があるあたり)。
まず、仙台東部道路より西側は、昨年は作付けできていない田んぼがたくさんあったのですが、今年は多くの田んぼできれいに稲穂が揃って、緑のじゅうたんになっていました。
東部道路より東の、海側の土地は、がれきの片づけは済んだものの、今年も作付けは無理だったようです。ところどころ茶色く土が盛ってある田んぼがあり、近寄って見ると、塩分除去の試験作業中であるような看板が立っていました。土の入れ替えをしているのかな?地盤沈下の影響もあって、津波で押し寄せた海水が長いこと滞留した状態になっていたところですから、貯まった塩分はそう簡単になくならないのでしょうね。来年は、お米がつくれるようになるのかしら・・・。いつまでかかるのかしら・・・。
それでも、名取川より南の名取市側は、住宅地に新しい家が建ったり、震災二ヶ月後くらに見た様子とはだいぶ変わっていました。
が、閖上地区を右手に見つつ橋をわたり、仙台市側にはいると状況は一変します。
1年前にここにきたときと、ほとんど様子が変わっていません。
もちろん田んぼにあった大きな木(防砂林として植えられていた松の木)の根っこだの、家の残骸だの、おびただしい自動車だのはすっかり片づけられていましたけど、津波で流されてしまった直後の「何もない」光景が続いていました。雑草が生えていましたが、あまり背の高い草はなく、これも塩分の影響なのかしらと思いました。
荒浜地区。県道10号線から東(海岸)方向を臨む。わずかに残った家も、窓がベニヤ板でふさがれている。松林は貞山堀ぞいにあった防砂林と思われる。
道路から少し入ったところに、20基くらいのお墓がある墓地がありました。
お寺の痕跡のようなものは見当たらなかったので、いわゆる集落墓みたいなものかと思います。
墓石はおそらく地震や津波で倒れたのでしょう。それが、まったくそのままになっていました。
そして、そこに数人のご家族連れが、お盆の供物を備えにやってきていたようでした。
本当に悲しい光景でした。
2階まで津波が到達した荒浜小学校の体育館。避難者を体育館に入れず、校舎の上階に上げたため、ここでの津波の死亡者はなかったという。小学校校舎は現在使われていない。
このあたりは、仙台市から「災害危険区域」に指定されて、住宅の新築が禁止されたのですね。
家が残っていればそれを修理して住むことは可能らしいのですが、何しろ、家がほとんど残っていません。土台すら流されてしまっているところも多数です。
区域外への集団移転を求められているようですが、それとて、各人の事情があり、なかなか話が進んでいないように聞きます。
何とかしたくても身動きが取れない。
何がベストなのか、ベターなのか。
どうしたらいいか分からないです。
そして、時間が経てば経つほど、困難も増えていきます。
荒浜小学校近くの民家。1年半経っても、そのままの姿で残っている。
もうすぐ震災から1年半が経とうとしていますが、復旧が進んでいるところもあれば、このあたりのように「何も変わっていない」地域もまだまだたくさんあるのだということを、忘れずにいたいと思います。