新潟から小牛田を案じて右往左往する記録

3/11におきた、東日本大震災。
新潟市に住んでいる私が、宮城県遠田郡美里町(旧・小牛田町)にある実家とそこに住む高齢の両親、そして近隣に住む親せきや友人を心配して右往左往した日々の記録です。
ブログやSNSの日記や、あるいはTwitterあたりに書きなぐったものなど、当時の記録がバラバラになっているので、ちょっとここでひとまとめ、というわけ。思い出して追記しておくこともあるかと思います。

3/11 午後3時前
仕事場で仕事中に地震発生。とりあえず建物外に避難。
職場の人のワンセグで震源地が宮城沖と知る。
小牛田の実家に電話(携帯・固定)するも、すでに通じず。
その後、引き続き強い揺れが続くので、職場の食堂でTVを見る。
津波の映像に震えが止まらなくなる。
午後5時すぎ
仙台の姉より「実家は命は大丈夫。被害は不明」と携帯メールに返信あり。
それ以外の詳細は全く分からず。
午後10時すぎ
姉よりメール。両親は避難所にいることが判明。
3/12
宮城や福島の親戚中に電話を掛けまくるも、まったく通じず。
状況が分からないので、ネットで情報を調べまくる。
美里町の被災状況は分からないが、隣の大崎市(古川)の情報が入り始める。
3/13
川越在住の叔母と電話連絡が取れ、福島にいる叔母たちが無事であることを確認。
3/14
夜中、姉より携帯メール。
ようやく携帯メールがつながりだした、とのこと。
姉宅はガス水道が使えているのでなんとかなっている模様。
同じ県内でありながら、ニュースで報じられる沿岸部のようす以外は不明とのこと。
3/15
ブログで情報提供を呼びかけたところ、私の実家の向かいに住んでいた人から連絡が入る。
現在東京在住だが、その人の実家は地震で潰れた、とのこと。
お互い情報が入ったら連絡を取り合うことにする。心強い。
3/16
仙台の姉とようやく、電話でゆっくり会話。
その後、地震直後に両親と交わした携帯メールの写しを送ってもらう。
怪我はないこと、家に被害があること、危ないので避難所におり40人以上の人と一緒であること。
栗原市在住の叔母とも電話連絡がとれた。
3/17
Twitterの情報で、大崎市古川あたりまで電気が復旧してきているようだったので、午前7時くらいに古川の叔父に電話したところ、通じた!
両親は無事で、母などは炊き出しの陣頭指揮を執っている(笑)、という話を聞かされる。
夕方になり北浦まで電気が復旧。
震災後、初めて両親と直接電話で話す。本当にホッとする。
しかし、給水車に水をもらいに行ったり、非常に不便な暮らしをしていることを聞き心配も募る。
3/20
停電でまったく連絡が取れず困った母が、3/16に出してみたという「はがき」が新潟に届く。
3/21
クロネコヤマトが、センター留めで宮城県宛の荷物を引き受け始めた、とのことだったので、さっそく食料を送ってみる。
中身は、缶詰類・フリーズドライやレトルトの食品・ペットボトルの水・野菜ジュース・ 麩・大豆・サランラップ・乾電池・ティーバッグのお茶・チョコレートなどなど。
3/22
前日の午後に発送した荷物が、この日の午後2時すぎには古川駅東センターに届いた。
たまたま震災前にガソリンを満タンにしていた母は、古川まで荷物を受け取りに。
3/23
水道がチョロチョロ出始めたものの、水圧が低く、バケツに水を貯めて使っているとのこと。
それでもようやく、洗濯機で洗濯ができた、と。
3/24
小牛田・古川関連の情報を効率的に得るべく、小牛田・大崎 Twitter Newsを作成。
3/25
実家に荷物、第2弾。
今回からは宅配可能に(翌日到着)
3/27
実家の父が高熱を出した、とのこと。
すぐ病院に行くように勧める。
3/28
水道は復旧したものの、水圧が低くて給湯器が作動しなかった実家。
早朝だと水圧が高いらしく、ようやく給湯器が使えて、入浴できたとのこと。
震災から17日目、自宅で入浴できたのは初めて。
「常温保存可能な豆腐」を実家宛送る。
3/29
ようやく水圧が安定して、給湯器が使えるようになったとのこと。
4/1?4/3
ガソリン状況が安定してきたので、ようやく、小牛田町北浦の実家に車で帰省。
高速で、頻繁に給油しながら向かう。
父は連日の点滴と服薬にて落ち着いていたが、腎盂炎ということで油断できず。
実家の後片付けを手伝う。近隣の親戚も回ってお見舞いを届ける。
この間、3度の余震にあう。
4/7
深夜にふたたび大きな地震。
また停電、そして避難所へ。
先日帰省時に近所の親戚と連絡方法を確認しておいたので、わりあいすぐに連絡が取れる。
4/8
夜に古川まで電気が復旧。
4/9?4/10
早朝に北浦あたりまで電気が復旧。
実家に帰省。
7日の地震でめちゃくちゃになった2階の片付けなど。
夜に、震度5弱くらいの余震あり。
4/30?5/2
地震後3度目の帰省。
片付けが残っていた、2階の押し入れの中を片付け終了。
復旧した陸羽東線に乗って、鳴子温泉まで一泊旅行。


小牛田の斎林本店 と 竹林さん(らぶ♪w

土曜日にTwitterのタイムライン上に突然現れた、
笑顔の竹林さん ヽ(*´∀`)ノ キャッホーイ!!

サッポロビール新潟支社の前支社長で、現ヱビスビール記念館館長さん。
バスケットbjリーグの浜松vs新潟の試合会場にお出でになったそうで!
お元気そうで何よりです!

竹林さんが新潟にいらしたとき、アルビサポのパーティにお出でくださり、
お話させていただく機会がありました。
私が宮城県出身だということをお話しすると、東北担当だったこともある竹林さんは
「宮城県の、どちら?」
とおっしゃしました。
仙台にいらしたのだろうから地名くらいはご存知かしら、
まあ、小さな町だからたぶん知らないだろうなあ、
と思いつつ
「小牛田(こごた)というところですよ」
とお答えしたところ、なんとまあ。竹林さんは
「斎林さんがあるところですねえ」
とおっしゃられたのですよー。

「斎林本店」は古い酒屋さんで、もちろんそれなりに有名なところなんですけど、
日本酒関係の方ならともかく、ビール会社の人でも知ってるのねえ、と
その時すごくびっくしりたのを覚えております。

その、「斎林本店」。

今回の東日本大震災の被害で、こんなことになっているようです。
齋林本店で「日高見・復興酒 希望の光」!!
http://blog.kahoku.co.jp/shokuweb/okkaa/archives/2011/05/post_482.html

倉庫だった建物は取り壊さざるを得ず、土蔵の壁も崩れ落ちそう・・・
(土蔵も結局、取り壊すようですね)
母屋も半壊状態だとか。

私の実家からは数km離れているのですが、
友人の家が近かったので、このあたりはよく通ったところです。
中学生だったからあんまり酒屋さんを意識したことはないんだけど(笑)
店先に飾ってある杉玉は、よく覚えています。

商売はがんがん続けてらっしゃるようなので、
今後帰省したときには、ちょっと寄ってみようかな・・・

ということで、
竹林さん、というと「斎林本店」を思い出してしまう
というお話でしたとさ まる!



3度目の帰省

ちょっと前の話になりますが。
GW前半に、また実家の小牛田町北浦に帰ってきました。
4月中に3回帰省したことになりますねー。
高卒後に実家を離れてから、かつてなかったことです(笑)

驚いたことは、前回の3週間前に帰省したときと比べて、
あまり町の様子に変化がなかったことでした。

古川市内など、もっと復旧しているかと思いましたが、
相変わらず道の段差のところにはカラーコーンが置かれたままだし、
完全に段差を埋めきれてないのです。
私の実家の向かいにある、かろうじて建っているだけの古い家は、
だんだん傾きがひどくなっているものの、壊すに壊せない状態らしいです。

古川のイオンもヨークベニマルも、まだまだ店舗の改修が終わらず
半分くらいの面積で営業しているとか。
小牛田のホーマックは全然営業再開してないそうでした。

ほんとうに以前の生活に戻るには、まだまだ時間がかかりそう・・・

これまでは実家の片づけが忙しくて、なかなか周りをみる余裕がなかったのですが、
今回の帰省では、江合川の対岸にある中埣地区の方まで行ってみました。

北浦小学校裏手の橋を渡ったのですが、北浦側の道路はなんともなかったのに、
橋を渡り切って中埣側に入ったとたん、アスファルトじゃなく砂利敷きになっていて、
それもものすごい路面の凹凸があってびっくりしてしまいました。
徐行しててよかったよー(TдT)
アスファルトが割れて路面がぐちゃぐちゃになったんでしょうね。

そこから中埣小学校のほうに向かう道は、脇に建ってる電信柱が傾いていて
平衡感覚がおかしくなるような感じでしたわ・・・

蔵の土壁がみな落ちていたり、古い納屋が潰れていたり、
ざっとみた感じでも、北浦よりは中埣のほうが被害が大きいようでした。
北に行くほど・東に行くほど震源に近くなるのだから、当たり前なんでしょうね。

実は今回は、仙台南部道路→東部道路を経由して帰省したのです。
若林JCTに近づく辺りから、はっきりとまわりの光景が変わるのが分かりました。
津波は東部道路で完全に止まったわけではなく、さらに内陸にまで到達したところもあるのですね。

何と言い表したらいいのか・・・
本当に、ただただ、怖かったです。
自分の目にしているものが現実とは思えないような、
まるで映画のセットかCGでも見ているような・・・

ただただ怖い、それだけでした。

これは、最初に帰省したときに、3/11の地震直後の実家の内部の様子を撮った写真を
父に見せてもらったときに、まず感じたことなのです。
写真を見ただけで、震えるほど怖かったのです。

次に帰省したときは、4/7の地震後なのですが、
まったく手付かずの2階の様子を目の当たりにして、
この時も、膝がガクガクするほど怖かったです。

高速道路を走っていても、波うつ路面が怖かった・・・

そんなことしか言えない自分が、なんとも情けないのですけれど、
あまりに大きすぎる自然の破壊力に、
ただただ「怖い、怖い」とつぶやくしかない自分だったのでした。



ぽつり・・・

とある、震災の支援マッチングサイトで。

雄勝町で、食料品の物資支援を要請する書き込みがあった。
それに対して
「石巻ではもう正常営業しているスーパーマーケットもある、とニュースで見た。
 支援が本当に必要なのか?」
という趣旨のレスがついていた。

レスを付けた人に悪意がないのだ、ということは分かる。
効率的な支援を、という意味なのだろうことは分かる。

でも。
これはたとえば
「長岡の駅前のショッピングセンターが営業してるから
 山古志の人も不便はないでしょう?」
と言っているに等しいことなんだよなあ・・・



被災地に送って喜ばれたもの

小牛田・大崎 Twitter News]を見てると
だんだんと街が復旧していく様子が分かるなあ。
陸羽東線に続いて、石巻線も前谷地までは開通したんですね。
(前谷地も石巻市になったんだよなあ、おい。訳わがんね)
鉄道が通ってこその、小牛田町です(笑)
後は東北本線かあ。
仙台まで電車でいけるようになれば、だいぶ人の動きも楽になります。
待ち遠しいですね。

さて、話はここからだ。

震災でライフラインが途切れたときに、実家に送って喜ばれたものを書いておきます。

森永の絹ごし豆腐
 常温で長期保存が可能な、完全無菌パックのお豆腐です。
 紙パック入りの牛乳みたいな容器に入っています。
 田舎の年寄りには、お豆腐は必需品っていう気がして送りました。

惣菜詰合せセット
 常温で1年保存可能な、和風のレトルト惣菜のセット。

ヘルシー焼き魚 あじ、さんまセット
 こちらも、常温で1年保存可能な、焼き魚のレトルトパック。
 温めなくても、そのままで食べられます。

和風惣菜セット
 ちょっと高級な、老舗の味のお惣菜セット。
 こちらは冷暗所で90日保存可能。
 そのまま食べられます・

条件としては、以下のような点がありました。
・クロネコヤマトが少なくとも営業所留めで配達可能だった。
・プロパンガスと給水があったので、お湯を沸かしたり土鍋でご飯を炊くことができた。
・ライフラインとして最初に復旧したのは「電気」(電子レンジが使える)。

レトルト惣菜は、ネット上で探すといろいろ出てきますが、
震災後需要が多かったのか、売り切れになってるところが多いかも。
被災地向けに、いろいろ探してみようと思います。



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