小牛田の斎林本店 と 竹林さん(らぶ♪w

土曜日にTwitterのタイムライン上に突然現れた、
笑顔の竹林さん ヽ(*´∀`)ノ キャッホーイ!!

サッポロビール新潟支社の前支社長で、現ヱビスビール記念館館長さん。
バスケットbjリーグの浜松vs新潟の試合会場にお出でになったそうで!
お元気そうで何よりです!

竹林さんが新潟にいらしたとき、アルビサポのパーティにお出でくださり、
お話させていただく機会がありました。
私が宮城県出身だということをお話しすると、東北担当だったこともある竹林さんは
「宮城県の、どちら?」
とおっしゃしました。
仙台にいらしたのだろうから地名くらいはご存知かしら、
まあ、小さな町だからたぶん知らないだろうなあ、
と思いつつ
「小牛田(こごた)というところですよ」
とお答えしたところ、なんとまあ。竹林さんは
「斎林さんがあるところですねえ」
とおっしゃられたのですよー。

「斎林本店」は古い酒屋さんで、もちろんそれなりに有名なところなんですけど、
日本酒関係の方ならともかく、ビール会社の人でも知ってるのねえ、と
その時すごくびっくしりたのを覚えております。

その、「斎林本店」。

今回の東日本大震災の被害で、こんなことになっているようです。
齋林本店で「日高見・復興酒 希望の光」!!
http://blog.kahoku.co.jp/shokuweb/okkaa/archives/2011/05/post_482.html

倉庫だった建物は取り壊さざるを得ず、土蔵の壁も崩れ落ちそう・・・
(土蔵も結局、取り壊すようですね)
母屋も半壊状態だとか。

私の実家からは数km離れているのですが、
友人の家が近かったので、このあたりはよく通ったところです。
中学生だったからあんまり酒屋さんを意識したことはないんだけど(笑)
店先に飾ってある杉玉は、よく覚えています。

商売はがんがん続けてらっしゃるようなので、
今後帰省したときには、ちょっと寄ってみようかな・・・

ということで、
竹林さん、というと「斎林本店」を思い出してしまう
というお話でしたとさ まる!

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あれから10年・・・

そうなんだ。
5月19日といえば、ビッグスワンで初めてアルビレックス新潟のホームゲームが行われた日。
2001.5.19 アルビレックス新潟 3?4 京都パープルサンガ

忘れられない試合。
試合そのものもそうなのだけれど、
建設中のビッグスワンを見学に行ったときのこととか、
初めてビッグスワンでの公式練習を見た日とか、
その日に向けてビッグフラッグ募金のあれこれを準備したこととか
いろんなことをひっくるめて、胸に刻まれている、特別な日。

そしてそんな日々を、こちらのコラムを読んでますます思い出す。
サポリンブログの浅妻コラム
彼女が最後まで愛した場所、ビッグスワン

エイヤードの小早川さんが亡くなった、という話を聞いて、
なにかこう、勝手に、
「一つの時代が終わった」的な感情を抱いてしまっていたのだけれど。

あの10年前の舞台でゴールを決めたクロさんが
いま、アルビレックス新潟の監督としてチームを率いている。
サッカーはずっとずっと、脈々と続いていいる。

小早川さんの愛したビッグスワンは、私たちが愛したビッグスワンでもあったはず。

あの頃あの場所にいた人たちは、いまはそれぞれの場所に散ってしまっているけれど、
あの熱狂は取り戻したいよね。
ラ・フォル・ジュルネ。

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被災地の女性にブラを贈ろう?ラブラブ大作戦!

サポーターズリンク新潟SNS」内の日記で呼びかけて、アルビのサポーター内で募金を集めて、下着が不足して困っている被災地の女性に「ブラジャー」を贈ろう、という活動を、ここしばらく続けております。「被災地の女性にブラを贈ろう?アルビサポ ラ・ブラ・ブ大作戦」でございます。
「大作戦」と銘打っておきながら、実はこじんまりとした活動なんですが、ずいぶんたくさんの人にご協力いただいておりまして、本当にありがとうございます。

もともとのきっかけは、Twitterでみた「被災地にブラを届ける活動に協力を」っていう呼びかけだったんですね。

そのころ私は、2度目の地震(4/7)の被害を受けた宮城県小牛田町(現・美里町)の実家から新潟に戻ってきていて、自分も故郷である被災地のために何か役に立ちたい、といてもたってもいられないような状況におりまして、ネットで情報を調べては、物資が不足している沿岸部の地域にTシャツ送ったりとか、していたわけです。
そこで、仙台市・佐藤美枝先生の「Face to Face の 小さな支援」に行き当たったのですわ。

佐藤さんのお友達(女川の方だそうです)が、震災後3週間も経ってるのに「11日からずっと同じブラを着けてるの・・・」とおっしゃった話を、メールで伺って、なんだかそれ読んだだけで涙が出ました・・・(TдT)

4月半ばころには、衣料品の支援は既に受入れ停止にしている自治体が多かったですし、基本的な下着が配られていないとは、全く思いも及ばなかったのですよね。

でも考えてみれば、確かに支援物資の中に「女性下着」とは書いてあるけれど、ブラとは書いてない。
一般的な肌着やショーツ類は配られていたのでしょうが、はっきり支援物資に「ブラジャー」と書かれているところはありませんでした。

それからあちこちで話を伺いましたが

  • 欲しいけれども、男性の担当者に「ブラ」が欲しい、とは言いづらい(サイズの要望等含めて)
  • 一応配布はされたけれども、合うサイズのものが見つからない
  • サイズが合わなかったものは本部に返すので、本部側は「戻ってくるくらいだからもう足りているのだろう」と判断
  • 大きな避難所には届くが、小さな避難所や個人宅にはほとんど届いていない
  • 支援物資として送られてくる衣類は古着が多く、古着の下着は配らず処分されることが多い

などなど、いろんな問題があることも分かりました。

このことをお友達の女性陣に話すと、みんな、「ああ!なるほど!ホントにそうだわ!」って、みんなすごく納得するんですよ。
たぶん、男の人には絶対分からないことだと思う。感覚的なことですからね。気付け、ってほうが無理がある。

それがないと死んでしまうとか、命にかかわるものではないから、優先順位からしたら後回しになることかもしれない。
でも普通に生活してたら、ブラなしで生活するって、女性にしたらちょっと想像つかないですよね。
被災地であっても、普通に外出したり仕事に出かけたり、生活があるんですから。

と、いうような経過がありまして。
自治体や救援本部のようなところに送りつけるのではなく、被災地の現場で、必要な方に必要なサイズのブラを届ける活動をしていらっしゃる佐藤さんに、気持ちを託すことにいたしました。

自分ひとりではできることが限られるので、私がもっとも信頼し大切にしている「アルビレックス新潟のサポーター仲間」にこのことを呼びかけたところ、ホントにびっくりするくらいのご協力をいただきました。

ふだんでも、新しい下着を身に着けた時って、気持ちが楽しくなる。
だから、被災地のみなさんにも、新しいブラで、すこしでも明るい気持ちになってもらいたい。
笑顔が広がるといいね!

そんなことをみんなで話しながら、資金を集めました。
「サポーター」って、ホントに人を応援すること、支えることが好きなんですよね。

これまで
■宮城の佐藤さん(女川・石巻沿岸部)
■岩手の「カシオペア女性と若者を支援する会」(二戸病院のドクター)
■宮城の高橋さん(石巻かほく商工会)←沿岸部から避難されてきた方がたくさん
に、ブラやブラキャミをお送りして現地で配布いただいています。

この問題は、最近になってようやく、マスコミでも報じられるようになって来ました。

避難生活、ブラジャー不足深刻
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/20110507-OYT8T00172.htm?from=yoltop
避難所でブラジャー足りない 支援届かず
http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp0-20110510-773574.html

少しずつでもよい方向に動いていくといいのですが・・・
まだまだ、私たちの支援も続いていきます。

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3度目の帰省

ちょっと前の話になりますが。
GW前半に、また実家の小牛田町北浦に帰ってきました。
4月中に3回帰省したことになりますねー。
高卒後に実家を離れてから、かつてなかったことです(笑)

驚いたことは、前回の3週間前に帰省したときと比べて、
あまり町の様子に変化がなかったことでした。

古川市内など、もっと復旧しているかと思いましたが、
相変わらず道の段差のところにはカラーコーンが置かれたままだし、
完全に段差を埋めきれてないのです。
私の実家の向かいにある、かろうじて建っているだけの古い家は、
だんだん傾きがひどくなっているものの、壊すに壊せない状態らしいです。

古川のイオンもヨークベニマルも、まだまだ店舗の改修が終わらず
半分くらいの面積で営業しているとか。
小牛田のホーマックは全然営業再開してないそうでした。

ほんとうに以前の生活に戻るには、まだまだ時間がかかりそう・・・

これまでは実家の片づけが忙しくて、なかなか周りをみる余裕がなかったのですが、
今回の帰省では、江合川の対岸にある中埣地区の方まで行ってみました。

北浦小学校裏手の橋を渡ったのですが、北浦側の道路はなんともなかったのに、
橋を渡り切って中埣側に入ったとたん、アスファルトじゃなく砂利敷きになっていて、
それもものすごい路面の凹凸があってびっくりしてしまいました。
徐行しててよかったよー(TдT)
アスファルトが割れて路面がぐちゃぐちゃになったんでしょうね。

そこから中埣小学校のほうに向かう道は、脇に建ってる電信柱が傾いていて
平衡感覚がおかしくなるような感じでしたわ・・・

蔵の土壁がみな落ちていたり、古い納屋が潰れていたり、
ざっとみた感じでも、北浦よりは中埣のほうが被害が大きいようでした。
北に行くほど・東に行くほど震源に近くなるのだから、当たり前なんでしょうね。

実は今回は、仙台南部道路→東部道路を経由して帰省したのです。
若林JCTに近づく辺りから、はっきりとまわりの光景が変わるのが分かりました。
津波は東部道路で完全に止まったわけではなく、さらに内陸にまで到達したところもあるのですね。

何と言い表したらいいのか・・・
本当に、ただただ、怖かったです。
自分の目にしているものが現実とは思えないような、
まるで映画のセットかCGでも見ているような・・・

ただただ怖い、それだけでした。

これは、最初に帰省したときに、3/11の地震直後の実家の内部の様子を撮った写真を
父に見せてもらったときに、まず感じたことなのです。
写真を見ただけで、震えるほど怖かったのです。

次に帰省したときは、4/7の地震後なのですが、
まったく手付かずの2階の様子を目の当たりにして、
この時も、膝がガクガクするほど怖かったです。

高速道路を走っていても、波うつ路面が怖かった・・・

そんなことしか言えない自分が、なんとも情けないのですけれど、
あまりに大きすぎる自然の破壊力に、
ただただ「怖い、怖い」とつぶやくしかない自分だったのでした。

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ぽつり・・・

とある、震災の支援マッチングサイトで。

雄勝町で、食料品の物資支援を要請する書き込みがあった。
それに対して
「石巻ではもう正常営業しているスーパーマーケットもある、とニュースで見た。
 支援が本当に必要なのか?」
という趣旨のレスがついていた。

レスを付けた人に悪意がないのだ、ということは分かる。
効率的な支援を、という意味なのだろうことは分かる。

でも。
これはたとえば
「長岡の駅前のショッピングセンターが営業してるから
 山古志の人も不便はないでしょう?」
と言っているに等しいことなんだよなあ・・・

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