1日1スコップ団。

「スコップ団」のページは、以前見つけて知っていた。
http://schop-dan.com/

副団長ゆうた、っていう人の
「サッサと終わらせて、飲みに行こう。」
がすんごくかっこいいな、と思っていた。

最近、スコップ団の団長さんのブログなるものを知った。
どうせ地球のチリだからな

一気に読むと泣けるから
1日に一つ、記事を読もう。
1日1スコップ団。

今日読んだのはこれ。
「スコップ団に入って」
http://blog.goo.ne.jp/cheapdust/e/f4251def12605a4129bf4d72ecb2bd43

泥に埋まった引き出しの中の、
きちんとたたまれた衣類。
波に飲まれてずぶぬれになっているけど。

そこに、きちんとした、幸せな毎日があったんだな、と分かる。

さて、あなたも「1日1スコップ団」しませんか?
そこから感じるものを大事に。



避難所からのお便り

昨日家に帰ったら、1通のハガキが届いていました。

少し前に支援物資を送った避難所の住所が、差出人のご住所でした。

そこは、ある小学校の体育館で、
数百人の方が生活しておられるところでした。

ふんばろう東日本」というサイトで、この避難所にいる方が
ヘアアイロンが欲しいとおっしゃってることを知りました。
私んちに、数回使っただけでお蔵入りしているヘアアイロンがあるので
新品でなくてもかまわないかどうか、型番も含めてお伝えして、
担当者に伺ったところ、「大丈夫です」ということだったので、お送りしました。

個人宛ではなく、避難所宛にお送りした物ですから
お礼状がくるとは思ってなかったんですけど
やっぱり嬉しかったですね。

ハガキには
浸水した家と職場と体育館を往復する生活の中で
支援物資のおかげで心に余裕が生まれたこと
本当にありがたく思っていること
などが書かれておりました。

そちらの避難所は、先週いっぱいで閉鎖になった場所なので、
避難所を出るにあたり、被災者の方みなさんで手分けして
支援物資を送った方にお礼状を書かれたのかな、と思います。

今はそれぞれが、仮設住宅に移ったり、アパートのようなところに移ったり、
新しい生活に足を踏み出していかれるのだと思います。
これから生活を再建されるのに、また大変な日々が続くことと思いますが、
少しでもお役に立てればな、と思います。

◆・・・・・・・・・・・・・・・・・・

支援物資として「ヘアアイロンは贅沢!」といったような風潮を、最近見かけます。

が、私自身、「髪の毛がバクハツ」するタイプ(笑)で、
ちゃんと手入れできないと外にも出かけられない、っていう気持ちはものすごく分かるし、
何せ使ってなくて家で眠っているものを役立ててくれるんなら
こんなに嬉しいことはないと思って、お送りしました。

毎日使っていたものが、ある突然に全て流されてしまった、そんな時に
「これまで使っていたものと同じものが欲しい」
というのは、自然だと思うんですよね、私。
ギャンブルで全財産なくした、とかいうならともかく、何ら本人たちに落ち度がなく
いきなり何もない生活に突き落とされているわけですから・・・

生活の目処がたっているなら「それまでは我慢しよう」とかいうのもあるでしょうけど、
全く展望もない生活の中で、「今は非常時だから我慢しろ」っていうのは
ちょっと違うんでないか?と。

震災から3ヶ月が経とうとしてますが
支援する人の側にも「支援疲れ」みたいな雰囲気を感じます。
こんなに支援してもまだ足りないの?みたいな・・・

もう足りてる部分もあるんでしょうけど、
全然足りてないところもありますよ。
ライフラインの復旧だけが問題じゃないと思います。

三陸沿岸の小さな地域に暮らしてた人たちは
漁業と少しばかりの畑で、けっこう自給して暮らしてた部分があります。
それが、船は流される、家も畑も流される、で、
いきなり毎日買い物して暮らせ、って言われたら、そりゃ不安ですよ。
近くのスーパーが営業再開したからそこで買ってこい、って言われてもね。

そういう、これまで暮らしてきた生活の様式、そういうものが元に戻らないと
暮らしはなりたたないんじゃないかと、私は思っています。
そこを「元に戻す」こと自体がもう無理なのかもしれませんが
それなら「新しい暮らし方」が成り立つまでは支援が必要だと、そう思います。

支援する側も、あれもこれもがんばろうとしすぎると、その反動で
「こんなものまで要求するなんて贅沢!」
「私はそこまで支援はできない」
なんていう気持ちになってしまうんじゃないでしょうかね。

できることを、ちょっとずつ。
それでいいじゃないですか?
がんばりすぎて、できるはずのことまでやらなくなってしまうっていうのが
一番バカバカしいですよ。



マイナス26%

5月分の、電気使用量のお知らせがきたのです。

細長い伝票に、4月中旬?5月中旬までの使用量が書いてあって、
下のほうには、昨年の同時期にはいくら使ったが表示してあります。

いや、だいぶ今年は減ってるな、節電に勤しんだ結果だな、と思い
計算してみると、なんと電気使用量が昨年同月比で、
マイナス26%!

工工工エエエエエエェェェェェェ(゚Д゚)ェェェェェェエエエエエエ工工工

いくらなんでも、そんなに???

よくよく日記などをたどってみると、
昨年は連休前に体調を崩し、連休中は高熱を発してずっと寝込んでいたのでした。
それに比べて今年の連休は、実家に帰ったり横浜に遊びにいったりしたので
家にいない日が多かった分、自動的に節電になったのかな、とか・・・

それにしても、こうやって数字と金額を見るとやる気がわきますね(笑)
引き続き節電に努めるでごわす!



新潟から小牛田を案じて右往左往する記録

3/11におきた、東日本大震災。
新潟市に住んでいる私が、宮城県遠田郡美里町(旧・小牛田町)にある実家とそこに住む高齢の両親、そして近隣に住む親せきや友人を心配して右往左往した日々の記録です。
ブログやSNSの日記や、あるいはTwitterあたりに書きなぐったものなど、当時の記録がバラバラになっているので、ちょっとここでひとまとめ、というわけ。思い出して追記しておくこともあるかと思います。

3/11 午後3時前
仕事場で仕事中に地震発生。とりあえず建物外に避難。
職場の人のワンセグで震源地が宮城沖と知る。
小牛田の実家に電話(携帯・固定)するも、すでに通じず。
その後、引き続き強い揺れが続くので、職場の食堂でTVを見る。
津波の映像に震えが止まらなくなる。
午後5時すぎ
仙台の姉より「実家は命は大丈夫。被害は不明」と携帯メールに返信あり。
それ以外の詳細は全く分からず。
午後10時すぎ
姉よりメール。両親は避難所にいることが判明。
3/12
宮城や福島の親戚中に電話を掛けまくるも、まったく通じず。
状況が分からないので、ネットで情報を調べまくる。
美里町の被災状況は分からないが、隣の大崎市(古川)の情報が入り始める。
3/13
川越在住の叔母と電話連絡が取れ、福島にいる叔母たちが無事であることを確認。
3/14
夜中、姉より携帯メール。
ようやく携帯メールがつながりだした、とのこと。
姉宅はガス水道が使えているのでなんとかなっている模様。
同じ県内でありながら、ニュースで報じられる沿岸部のようす以外は不明とのこと。
3/15
ブログで情報提供を呼びかけたところ、私の実家の向かいに住んでいた人から連絡が入る。
現在東京在住だが、その人の実家は地震で潰れた、とのこと。
お互い情報が入ったら連絡を取り合うことにする。心強い。
3/16
仙台の姉とようやく、電話でゆっくり会話。
その後、地震直後に両親と交わした携帯メールの写しを送ってもらう。
怪我はないこと、家に被害があること、危ないので避難所におり40人以上の人と一緒であること。
栗原市在住の叔母とも電話連絡がとれた。
3/17
Twitterの情報で、大崎市古川あたりまで電気が復旧してきているようだったので、午前7時くらいに古川の叔父に電話したところ、通じた!
両親は無事で、母などは炊き出しの陣頭指揮を執っている(笑)、という話を聞かされる。
夕方になり北浦まで電気が復旧。
震災後、初めて両親と直接電話で話す。本当にホッとする。
しかし、給水車に水をもらいに行ったり、非常に不便な暮らしをしていることを聞き心配も募る。
3/20
停電でまったく連絡が取れず困った母が、3/16に出してみたという「はがき」が新潟に届く。
3/21
クロネコヤマトが、センター留めで宮城県宛の荷物を引き受け始めた、とのことだったので、さっそく食料を送ってみる。
中身は、缶詰類・フリーズドライやレトルトの食品・ペットボトルの水・野菜ジュース・ 麩・大豆・サランラップ・乾電池・ティーバッグのお茶・チョコレートなどなど。
3/22
前日の午後に発送した荷物が、この日の午後2時すぎには古川駅東センターに届いた。
たまたま震災前にガソリンを満タンにしていた母は、古川まで荷物を受け取りに。
3/23
水道がチョロチョロ出始めたものの、水圧が低く、バケツに水を貯めて使っているとのこと。
それでもようやく、洗濯機で洗濯ができた、と。
3/24
小牛田・古川関連の情報を効率的に得るべく、小牛田・大崎 Twitter Newsを作成。
3/25
実家に荷物、第2弾。
今回からは宅配可能に(翌日到着)
3/27
実家の父が高熱を出した、とのこと。
すぐ病院に行くように勧める。
3/28
水道は復旧したものの、水圧が低くて給湯器が作動しなかった実家。
早朝だと水圧が高いらしく、ようやく給湯器が使えて、入浴できたとのこと。
震災から17日目、自宅で入浴できたのは初めて。
「常温保存可能な豆腐」を実家宛送る。
3/29
ようやく水圧が安定して、給湯器が使えるようになったとのこと。
4/1?4/3
ガソリン状況が安定してきたので、ようやく、小牛田町北浦の実家に車で帰省。
高速で、頻繁に給油しながら向かう。
父は連日の点滴と服薬にて落ち着いていたが、腎盂炎ということで油断できず。
実家の後片付けを手伝う。近隣の親戚も回ってお見舞いを届ける。
この間、3度の余震にあう。
4/7
深夜にふたたび大きな地震。
また停電、そして避難所へ。
先日帰省時に近所の親戚と連絡方法を確認しておいたので、わりあいすぐに連絡が取れる。
4/8
夜に古川まで電気が復旧。
4/9?4/10
早朝に北浦あたりまで電気が復旧。
実家に帰省。
7日の地震でめちゃくちゃになった2階の片付けなど。
夜に、震度5弱くらいの余震あり。
4/30?5/2
地震後3度目の帰省。
片付けが残っていた、2階の押し入れの中を片付け終了。
復旧した陸羽東線に乗って、鳴子温泉まで一泊旅行。


小牛田の斎林本店 と 竹林さん(らぶ♪w

土曜日にTwitterのタイムライン上に突然現れた、
笑顔の竹林さん ヽ(*´∀`)ノ キャッホーイ!!

サッポロビール新潟支社の前支社長で、現ヱビスビール記念館館長さん。
バスケットbjリーグの浜松vs新潟の試合会場にお出でになったそうで!
お元気そうで何よりです!

竹林さんが新潟にいらしたとき、アルビサポのパーティにお出でくださり、
お話させていただく機会がありました。
私が宮城県出身だということをお話しすると、東北担当だったこともある竹林さんは
「宮城県の、どちら?」
とおっしゃしました。
仙台にいらしたのだろうから地名くらいはご存知かしら、
まあ、小さな町だからたぶん知らないだろうなあ、
と思いつつ
「小牛田(こごた)というところですよ」
とお答えしたところ、なんとまあ。竹林さんは
「斎林さんがあるところですねえ」
とおっしゃられたのですよー。

「斎林本店」は古い酒屋さんで、もちろんそれなりに有名なところなんですけど、
日本酒関係の方ならともかく、ビール会社の人でも知ってるのねえ、と
その時すごくびっくしりたのを覚えております。

その、「斎林本店」。

今回の東日本大震災の被害で、こんなことになっているようです。
齋林本店で「日高見・復興酒 希望の光」!!
http://blog.kahoku.co.jp/shokuweb/okkaa/archives/2011/05/post_482.html

倉庫だった建物は取り壊さざるを得ず、土蔵の壁も崩れ落ちそう・・・
(土蔵も結局、取り壊すようですね)
母屋も半壊状態だとか。

私の実家からは数km離れているのですが、
友人の家が近かったので、このあたりはよく通ったところです。
中学生だったからあんまり酒屋さんを意識したことはないんだけど(笑)
店先に飾ってある杉玉は、よく覚えています。

商売はがんがん続けてらっしゃるようなので、
今後帰省したときには、ちょっと寄ってみようかな・・・

ということで、
竹林さん、というと「斎林本店」を思い出してしまう
というお話でしたとさ まる!



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