アルビレックス新潟の最近のブログ記事
先に継続を申し込んでいたシーズンパスの、内容確認書がとどいた。
実は、ペアシートの最後列に座っているので、できれば少しでも前方へ移動したいと思い、変更を希望していたのだが
ヤター! \(´∀`)丿\(´∀`)丿
3列前へ移動決定!!
去年も移動を希望して叶わなかったんだが、今年は移動できた。
んー。やっぱりペアシートでも継続率が下がってきてるのかなあ・・・
新しくペアシートを希望した人はどうだったでしょうか?
移動の希望はかないましたか?
いよいよ今シーズンの試合も、明日の大分戦を残すのみとなった。
寂しいのう・・・
開幕戦をホームで開催できないかわりに、毎年最終節をホームで迎えられるというのは、これはこれでなかなかいいものだと思う。終わりよければすべてよし、ということもあったし、チームを去る選手の最後の勇姿をしっかりと目に焼き付けた、ということもあったし。
最終節といえばやはり、いろいろな思い出があるものだ。
一番思い出に残るのは、やはりJ1昇格とJ2優勝を決めた2003年の最終節大宮戦なのだけれど、自分の中で次点に輝いているのは、1999年のFC東京戦なんだなあ。
目の前で昇格を決められた、あの1戦。自分たちの昇格の可能性は最終戦前に消えていたので、直接対決で決められた、というような悔しさはなかったけれど・・・。そうだな、正直、悔しいというよりは「うらやましい」っていう感情が溢れてきたのだ。
この時点で3位のFC東京は、うちに1-0でさくっと勝利。かたや勝ち点差1で2位の大分は、ロスタイムで山形に同点にされ試合は延長に。このときはVゴール制度があったので、どっちかが点を取ればそこで昇格チームが決まる。市陸の試合が終わっても、じっと大分戦の結果を待つFC東京ベンチとサポーター(バックスタンドに陣取っていた)。
お客さんがお帰りにならないのでは、ホスト側も帰るわけにはいかないので、お付き合いしてじっと待つ、アルビサポーター。これが、寒い。実に寒かった。でも、怖いもの見たさというか、野次馬根性というか、昇格するにせよ昇格を逃すにせよ、その瞬間のFC東京サポーターの様子を見てみたい、っていう気持ちが自分にはあったね。
結局大分の試合は、延長をフルに戦っての引き分け。
そのころは携帯で速報をチェックなんていうような文明の利器もなかったので、市陸の客席で待ってるサポーターには結果がわからない。おそらく、FC東京のスタッフには、会場の山形から電話連絡がはいったのだろう。市陸の建物内からFC東京のスタッフが飛び出してきた。がーっとバックスタンドに向けて走っていくスタッフ。そのあとから選手も飛び出してくる。
うわわぁぁぁああああああーーーー、絶対こりゃあサポーターもピッチに飛び出すわー。
「止めてくれーー、日本でも有数の美しいピッチを荒らさんでくれーーー!」
と叫びつつも、どっかで
「しょうがないよな、だって昇格だもんな」
とつぶやく心の声。
案の定、バックスタンドから飛び降りたサポーターと選手たち、スタッフたちが、抱き合って大喜びしている。「ピッチに降りないでくださーい」と静止するアルビレックス側のスタッフも、ちょっと及び腰(んなことないかw)
そのシーンは、本当にうらやましいものだった。
あまりの寒さに耐えかねて席を立ち、市陸脇の歩道橋の上からその様子を眺めていた自分は、
「あーあ、いいなあ(´・ω・`)」
とつぶやくのみだった。
このFC東京の昇格シーンを生で見たことは、自分にとって転機になったといえる。
選手たちがサポーターと抱き合って、勝利や昇格を喜び合っている。ともに戦ってきた同志として、ピッチ上にいる。
こんなシーンが、やがては自分たちのチームにも訪れるのだろうか。昇格決定のその瞬間に、選手たちはサポーターのほうに走ってきてくれるだろうか。その喜びを分かち合う相手に、サポーターはなれるのだろうか。
この場面に遭遇して、私のような気持ちになった人は少なくなかったのではないかと思う。
だって、翌年の2000年シーズンから、サポーターは変わり始めたから。
「スタジアムを盛り上げる応援」から「闘う選手を後押しする応援」へと、スタイルが変わっていったから。
もちろん、それですぐにチームが強くなったわけじゃない。
2000年は散々なシーズンで、最終戦には既に昇格を決めた札幌のサポーターが、チャーター便で大挙してやってきて、先制したのに終了間際に播戸の2得点で逆転されて、呆然とした中での最終戦セレモニーで、永井監督の胴上げに憤慨して(苦笑)etc.
ソリさんが来てからは
脳味噌が融解した2001年湘南戦の寺川Vゴール、とか
続投決定で幸福感が満ち満ちたスタジアムでの2002年水戸戦とか
昇格決定の2003年大宮戦とか
そんな幸福な時代が続きましたな。
J1に上がってから、最終節では勝ってないので、今年はぜひ勝ちたい、勝たせたい!
「40日間3位」の名にかけて!www
先日、ちゃきんさんに少し励まされたので、またボチボチ手をつけはじめております。
何のため、誰のためにやっているのか自分でもよく分かりませんがw、データを調べたりするのが好きな性格なので、結局は自分の趣味ってことなんですかね。
改造に手を付けたのは、もっといろんな方法で検索や絞込が出来たらおもしろいだろうなあ、と思ったから。
試しに「デーゲーム」「ナイトゲーム」で分類してみると、J1に上がってからだと
デーゲーム:77件(31勝28敗18分)
ナイトゲーム:47件(14勝24敗9分)
※キックオフが午後6時以降のものを「ナイトゲーム」と分類した
なんでこんなにナイトゲームの勝率が悪いんだろ?J2ではそんなことなかったのに。
夜だから悪いのか、あるいはナイトゲームは初夏~夏に開催されるので、その時期に負けが込んでくるってことなのか?ブラジルキャンプ止めてから夏に弱くなったのか?じゃあ、月別に勝率出してみるか?そんなふうに興味が広がりますよw
審判との相性、なんてのは実は全く気にしてないんだけど、念のため調べられるようにしてみた。
らっ。
らっ。
あらまっ。
J1になって、岡田主審では一勝もしてないのだな!?
あちゃー。
なんてことが判明したりしますw
やな感じw
この、試合のデータベースと、これから作る予定の選手個人データのデータベース(得点だの、カードだの)を、どのように組み合わせて検索できるようにするか・・・。うーむ。問題が山積みだなあ。なんとか来シーズンまでには完成したいものです(ヲイ
先日テレビでニュースを見ていたら、「サッカー指導で被災地を激励」ってことで、岡ちゃん元日本代表監督と岩本テルが柏崎に来た様子を映していた。
テルだー。なつかしーなー。
これは仙台にいたころのテル。ほっぺが赤いw
岩本輝雄in仙台スタジアム@2001年10月6日
なぜテルが笑っているかというとですね、これはコーナーキックを蹴りにきたところなんだけど、うちらはこのころ、ブーイングなんていう無粋なことはせずにですね、かわいいテルを「キャーイング」で迎えていたのだ!w
仙スタなんで、選手との距離は近い。
眼前にやってくるテルに、アルビサポ腐婦女子から湧き上がる
「キャーーーーーー!テルーーーーーー!」
「テルーーーーゥゥゥゥウウ!!」
の黄(土)色い声援!
さすがの(さすがかよ)テルもニガワラwww
かわいいテルのついでに、コイツwも載せておいてあげよう。
森勇介in仙台スタジアム@同日
ウジが猛チャージでボールを奪取したところ、派手に吹っ飛んでみせる森ユースケ。
審判へのアピールで猛烈に痛がってみせて、無事ファウルを取ってもらったところで元気よくピョコンと立ち上がる。なんて奴だ!ざけんなよ!試合も終わり間際でみな気が立っていたので、殺気だった瞬間だ。
この日の試合は、世界的に有名なゴールゲッター「オウンゴール」選手が後半、仙台で得点後に電撃的に新潟移籍を果たすというおどろべき展開があったものの、仙台4-2新潟で敗北を喫す。
あれっ?
このスクリーン見ると、「オウンゴール」じゃなくて「オンゴール」になってますがな。
これって仙台弁?(ちがいます)
【余談】
野澤がマルコスのPKを弾いたものの、つめていた仙台の光岡にゴールを決められてしまった。PKはキーパーも大事だけど、そのあとの守備陣の集中もすごく大事なんだよ。このときは、神さんもマルキーニョも西ヶ谷くんも、棒立ちだったもんなあ・・・。ショックでした。
先日の神戸戦で思ったけれど、北野が止めた後のDFのダッシュがすごかった。アルビレックス新潟も、今やすっかり違うレベルで戦っているのだなあと、なんかしみじみ思いました。まる。
ほぼ満員のスタジアムを見渡しながら、オットがよく「『柿の種』みたいだなあw」と言う。
2階ペアシートから見るとたしかに、オレンジ色のレプリカユニフォームをまとって席に座る観客たちは、その一人ひとりが「柿の種」一粒一粒のように見える。ところどころに混じる白っぽいTシャツ姿は、ちょうど「ピーナッツ」のようだし。
正式名称は「東北電力ビッグスワンスタジアム」でいいけど、愛称は「柿の種スタジアム」でいいんじゃないかと、まったくもって思う今日この頃。(そういうわけにはいかんじゃろうw)
スタジアムはいつ頃からこんなにオレンジになったのだろう?
サポーターはいつ頃から当たり前のようにアウェーに参戦するようになったのだろう?
- 2001年も狂乱のシーズンだった。@hama
- 浅妻信の風と共に蹴りぬ-第23回「プレイバック2001(5)」
この試合は大事な試合だから見に行く、などという理由付けはとうになくなっていた。「そこに山があるから」という有名なセリフがあるが、「そこに試合があ るから」見に行っていたにすぎない。大げさに言えば運命共同体。生まれたての醜いアヒルの子だった僕らサポーターも、1シーズンの激闘と、そしてちょっと ばかりのしょっぱい経験を経て、いっぱしのサポーターになろうとしていた。
- hamaのサッカー日記-新潟サポーターの進歩1
- hamaのサッカー日記-新潟サポーターの進歩2
ビッグスワンこけらおとしの京都戦@2001.5.13
3万人入ったこの試合でさえ、G裏の中心部の周りはスカスカで、通路をはさんで隣のブロックは、フツーの格好の人だったり(ネクタイ姿の人もいるなあ)
2001年をワンシーズン戦い抜き(Vゴールの大分戦、ナミダのアウェイ仙台戦、「俺たちも諦めていない」水戸戦、呆然の京都戦、非情な雨のアウェイ山形戦、つきぬけた川崎戦@町田は東京)、そして迎えた最終戦。
シーズン最終戦の湘南戦@2001.11.16
いつの間にかG裏はこんな状態になっていた・・・w
ちなみに2001年リーグ戦の最終ゴールは、テラのVゴール。
湘南戦というとなぜか延長になることが多くて、思い出すと脳味噌が沸騰しそうになりますなw。
ちなみに、大きいサイズのG裏写真はこちら
フルサイズで見ると、一人ひとりの顔が判別できます。
kumaさんやみの~くんはすぐ見つかるから、これが判っても初心者レベルねw
このなかから浅妻さんを見つけた人は上級者です。見つけると、浅妻さんから豪華景品が贈られますw
なお、ジジイを見つけてもポイントにはなりません。
クーラーの効きも悪くなるほどの猛暑のひと時、みなさま、いかがお過ごしでしょうか。
お盆休みのようなものに入ったので、あいかわらずコツコツ写真整理を続けております。
で、こちらのコメントで姉さんが触れておいでの、セイゴローの倉庫の中格納されていた「さわやかスマイルの鳴尾」の証拠写真が見つかったにゃw
新潟スタジアム倉庫@2001年11月3日(クリックで大きく)
これ、そももそは「サポーターズクラブ」への入会を呼びかけるための立て看板で、2000年の市陸のホームゲームのときに正面のテント前とかに立ててあったのねん。妙な手つきwのナルの左手の部分をよーく見ると、透明なプラスチックケースが貼り付けてあるのがわかるかな?そのケース部分に、入会申込のリーフレットが入れてあったのさ。
雨だの直射日光だのに晒されて、すっかりベコベコになってしまった等身大鳴尾くん。
それでも2000年のシーズンが終わったばかりのころは、こんなに酷い状態じゃなかったような気がするよねえ・・・
なにせ、このシーズン限りで鳴尾がチームを去るという話が決まった後、「思い出に、あの等身大鳴尾くんが欲しい!」っていうファンがたくさんいたくらいだし。中野専務(現社長)に頼み込んで、「だーめっ!」って断られてた人もいたなあw
その後しばらく、市陸内の部屋にひっそりと飾られていたという目撃談もあったが、新潟スタジアムでホームゲームをするようになってから、そっちの倉庫に運ばれてきたらしい。
しかし、2002年のワールドカップ開催前に、アルビレックス関連のものは全部倉庫から出してくれ、っていうふうに県のほうから言われて、スタジアムの倉庫にあったものはすべて、いったん美咲町の事務所なりに引き上げてきたものと思われる。
そしてその後、この鳴尾くんがどうなっているのか、その行方を知る者はいない・・・
おおっと、あと30分もするとG大阪戦が始まりますな。
プレイバックしてる場合じゃなくなってきたっす。
今夜は一人でカニ祭りwww
浅妻信の風と共に蹴りぬ-第22回「プレイバック2001(4)」
まだまだ続く、連動企画w
浅妻さんが「いまだにその興奮が忘れられない試合」と書いている2001年第35節の大分戦。
この日の観客数37,075人は、当時のJ2記録を更新。
この試合は私自身も忘れられない試合の一つ。
ちょうどビッグフラッグのデザイン投票が行われた試合で、当日は早めにスタジアム入りして、投票の準備や呼びかけ・写真撮影などを行っていた。その関係上、この日はメインスタンドではなくて、めずらしくバックスタンドで観戦していたのであーる。
「寺川がゴール後、両手をあげてゴール裏サポーターに向かって走ってきたシーンは、それこそ100年史にも載せるべきショットであろう。」@浅妻信
それが、これだ。(小さい写真でスイマセン。クリックで拡大)
普段サポーターに対してはとっても無口で、あまり感情を表に出さない寺川が、こんなふうに喜びをむき出しにしてG裏に向かって走っていく姿は、Vゴールで脳味噌が沸騰しているサポーターの心を激しく揺さぶったのだった。ぐぉーーーーーーーん
で、詳しい撮影データが残ってないので正確でないかもしれないんだけど、寺川Vゴールの写真がこちら。
アンドラジーニャがあげたセンタリングを、クロさんが競ってこぼれて・・・
走りこんできた寺川が左でゴール!
ちなみに「新潟 2v - 1 大分」で、大分の1点は船越w
船越とセルジオのマッチアップっていうのも、いつみても見ごたえあったなあ!
浅妻信の風と共に蹴りぬ-第22回「プレイバック2001(4)」
浅妻さんのプレイバックコラム、次回で終わりだそうである(><)
この週末からリーグ戦再開、となれば、それもしょうがないか。
クロさんのリーゼントが、すごいなあ・・・www
マサもカワイイね。
でも、注目すべきはそんなことではなく、浅妻コラムで触れられている、ソウザとリンドマール。
その二人の貴重なツーショットがこれw
リンドマールはスタメンでの出場は1試合もなし、ソウザにいたってはついにベンチ入りさえなかったという、ビックリ記録(リンドマールも8節以降はベンチ入りなし)。メインスタンド観戦が常だった私にとって、彼らが家族と一緒にスタンド観戦している姿を間近で見るのは、正直、苦痛以外の何ものでもなかった。チームにとっても彼らにとっても、不幸な時間だったと思う。
助っ人FWがこんな調子だったので、クロさんも体のあちこちを痛めながらも頑張らざるをえなかったのだ。夏にアンドラジーニャがやってくるまでは・・・。
浅妻信の風と共に蹴りぬ-第21回「プレイバック2001(3)」
浅妻さんが「恵まれた体躯を生かした抜群のポストプレーから、左右両足からのキャノン砲が炸裂」と書いているように、2001年のクロさんのポストプレーは本当にすばらしかった。ペナルティエリア内で相手DFを背にしたときの強さといったら、もう・・・。
ポストによくボールが収まるので、攻撃のチャンスが増える。
このシーズンは、氏原が、テラが、慎吾が、本当によく得点を決めた。
もちろん、クロさん自身も抜群の得点能力を遺憾なく発揮してくれた。シーズンで20点以上取ったのは、チーム史上、黒崎とマルクスだけではないだろうかしら?
京都戦では、このまま振り向きざまに打ったシュートが、記念すべきビッグスワンの初ゴール。
時にはこんなミドルが炸裂して、スタジアムをしびれさせたw
2001年は、そう。まったくワクワクした年だったよね。
監督が代わり、新しいスタジアムがオープンし、TGPが始まり、etc...etc...
結局最終的には一度も昇格ラインに達しなかったのだけれど、それでも初めて昇格が具体的な目標になったこと、「J1昇格に絡む」位置にいられたこと、この年の経験はチームにとっても、サポーターにとっても貴重なものだったと思う。
ちなみにビッグスワン杮落としの客席は。
「ゴール裏サポーターも、これまでふたつに分かれていた団体を、この晴れの日を前にひとつにまとめた」とは言っても、そんな大人数のG裏集団が出現したわけではない。VAMOSの旗の上のほうに集まってるオレンジが濃い部分、これが当時の中心部。前のほうなんてスカスカだしね。
ここから一気に爆発するわけではなく、杮落としの京都戦以降の新潟スタジアムの入場者数は、鳥栖戦19391 人、湘南戦12707人、山形戦11384人と1万人台が続く・・・。仙台戦・川崎戦でなんとか2万人台に乗せ、終盤の大一番、京都戦(ビッグフラッグ完成のお披露目あり)で初めて4万人を突破。
このあいだに、テールゲートパーティがあったり「おーちゃんバス」が始まったり、ビッグフラッグの募金があったり、いろんなイベントがあって飲んだり歌ったりw、盛り上がっていくわけです。
ブラック・アルビレックス物語 第2話(第1話は省略w)
2000年晩秋
悪い魔法使いの魔法により「王子」の座を追われたアルブレヒトは、キョトン顔のオトボケ白鳥に姿を変えられ、市陸でマスコットとしてこき使われていた。肉が裂けるほどの怪我を負いながらも、休むことなど許されなかったのだ・・・
「平均観客動員数が5千人を超えたら、魔法を解いて、かっこいい白鳥に姿を変えてやってもいいぞ」
悪い魔法使いは、そんな条件を出した。
せ、せめて水戸や甲府なみに「3千人」目標ならクリアできるのに・・・
アルブレヒトは必死に営業活動を続けたが、この年のアルビレックスのチーム成績は非常におもわしくなく、当然のことながら観客数も伸びなかったのだ。この日(2000年11月11日鳥栖戦)は、ホームゲーム観客数がJ2昇格以来最低(1786人)を記録した、まさにその日なのであった。
王子アルブレヒトの苦労は、まだまだ続く・・・(完)